あげるのはいいけど、手に入るとは限らないよ

このタイトルは少し長めですが、内容は日常生活のリアルな事例から取ったものです。これを読んでいるあなたの周りにも、似たような話があるかもしれません。以前、面白い言葉を目にしたことがあります。「トイレットペーパーの使用率は10%だが、残りの90%は安心感のためにある」というものです。

当時これを見た時、まさにその通りだと、思わずニヤリとしてしまいました。世の中の多くのことは、実際そういうものですよね。

私はIT技術のトレーニング事業を運営しています。会社には集客を担当する「営業部門」と、授業を行う「教務部門」があります。研修の構造自体は非常にシンプルです。

しかし、これほど規模の小さいシンプルな会社であっても、お互いの「言語」が通じない場面が多々あります。時々友人から「日本で言葉が通じない時はどうするの?」と聞かれますが、私は「いや、日本どころか中国国内にいたって、言葉が通じないことなんてザラだよ」と答えています。

うちのカリキュラムはかなりの規模です。他社と比べて「うちが最高に凄くて技術も一番細かい」とまでは言いませんが、カバーしている範囲の広さに関しては唯一無二だと自負しています。まあ、技術者同士が集まって「どっちのITスキルが上か」なんて競い合うこと自体、バカげているしダサいことだとは思っていますが。

詳細は伏せますが、うちのコースと受講生データを簡単に説明します。

コースは入門、中級、上級、トップレベルに分かれています。実際、高い給料を望むなら上級までマスターすれば仕事に困ることはありません。しかし統計(受講生はそれなりの大学出身者ばかりです)を見ると、上級コースを「学ぶ(理解する、ではなく着手する)」学生は50人に1人、トップレベルまで辿り着くのは400人に1人程度です。ほとんどの学生は、中級をなんとか終えると、大学院入試やコンテストに流れていき、院に入ればもう勉強しなくなります。これは院が役に立つからではなく、「院に入りさえすれば、技術がなくても仕事が見つかる」という執着があるからです。そして卒業間際になって、院でも時間を無駄にしたことに気づくわけです。

そこで気づいたのは、多くのカリキュラムがいわゆる「パラドックス(逆説)」の上に成り立っているということです。宣伝では「ネットにはない高品質な内容がある」と謳い、学生も「これを受ければ自分も強くなれる」と期待して申し込みます。しかし結局、その大半は社会的な「負け組」になってしまいます。

あるスタッフが「教育事業の目的って一体何なんですか?」と繰り返し聞いてきたことがありました。私は「金儲けに決まってるだろ。学生一人につき1万元の赤字が出るならやるか?そういうことだよ」と答えました。私たちは、彼らの失敗続きの人生という道に「料金所」を設置して、通行料を取っているに過ぎません。その中で、自らの努力で未来を変えられるのは、ごく一握りの人間だけです。

元教え子のスタッフがこう言いました。「ルームメイト(かなり努力家なタイプ)と一緒にトップレベルのコンテンツを見たんですが、広さはあっても深さが足りない気がします。これでは学生に何を提供できるのか分からなくなります」

これで思い出したのが、ある211工程(重点大学)の院に進んだ学生の話です。彼の専門は「A」という非常にマイナーな分野でした。私もよく知らない分野です。すると営業部門が「A分野の博士チームからコンテンツを買い取って、コースに追加しませんか?そうすれば宣伝のフックになります」と提案してきたのです。

私はなんて愚かなんだと思いました。一人の学生がAを研究しているからといって、Aをカリキュラムに入れる必要があるのか?その学生自身が1%のトップ層なんです。その1%のために、わざわざサービス全体の技術的深度を底上げしようとするなんて、滑稽な話です。

うちのトップレベルのコンテンツには、国内トップクラスの権威に協力してもらったものもあります。制作時、彼に「これ、実際に学ぶ人はどれくらいいますかね?」と聞かれ、「おそらくゼロでしょう。でも、存在することに意味があるんです。それがあることで、みんな安心するんですから」と答えました。

これが「パラドックス・コース」です。たとえ中身が空っぽでも、営業担当はそれを知らずに宣伝し続けます。そして結局、誰もそこまで辿り着きません。でも、みんなの目には見えている。「これを学びたい」という学生がいれば、「まずは基礎のこれ、次にステップアップのこれをクリアしないとダメだよ」と言えばいい(実際その通りですし)。そうすれば、学生は必ず諦めます。ここ数年、例外はありません。

就職した学生たちの状況を見ても、大手企業に入ったところで、トップレベルの技術なんてまず使いません。出世していくのは、家庭環境や地頭、学習能力、コミュニケーション能力が高い層であり、技術は(よほど突き抜けていない限り)決定的な要素ではないのです。

トイレットペーパーの使用率は10%ですが、残りの90%は安心感です。

「大学に入れば幸せになれる」「院や博士に行けば幸せになれる」「教材をクラウドに保存すればマスターした気になる」「すごい人の研修を受ければ自分もすごくなれる」「上司と仲良くなれば自分も偉くなった気がする」「金持ちとつるめば自分もすぐ金持ちになれる」

結局のところ、私たちは彼らが幻想の中で生き続ける手助けをしているだけなのかもしれません。

大人になったつもりでいた、あの頃の背伸び

この記事、実は大学を卒業した頃からずっと書きたいと思ってたんだ。でも、当時はまだ経済的な基盤もなかったし、周りをじっくり観察したデータも足りない気がして、ずっと書けずにいた。そうこうしているうちに数年が過ぎて「まあ、そんなもんか」って流してたんだけど、最近また似たような出来事にぶつかってね。いい機会だから、ずっと温めていたこのテーマにケリをつけようと思う。

というわけで、今回語り合いたい思い出のテーマは――「成熟」、そして「成熟したつもりになっているイタい奴ら」について。

大学生の頃、やたらと「成熟(大人っぽい)」って言葉が流行ってたのを覚えてる。「お前、やり方が大人だね」なんて言われるのは褒め言葉で、仕事が丁寧だとか、情緒的な成長が人より「早い」って意味で使われていた。

だから、多くの男子大学生は「大人のフリ」をしたがったんだ。

例えば、僕らが思う「大人の服」を着ること。あどけない顔をしてスーツを着こなしてる大学生をよく見かけたけど、正直、滑稽だなってずっと思ってた。社会経験ゼロの人間の目から溢れ出る「清らかな愚かさと無知」は、服じゃ隠せないからね。

ドラマのワンシーンを真似して女の子を口説いたり、好きな子に一生モノの誓いを立ててみたり。

同窓会に行けば、大人の真似事をして酒を勧め、拳を突き合わせ、酒癖悪く暴れたりタバコを配り歩いたり……。で、数杯飲んだら「俺は学校でこれだけ顔が利くんだ」なんて自慢話を始める。

当時の僕は、そんな彼らを見てこの記事を書きたいと思った。でも、自分も同じ大学生だし、ここで毒を吐くこと自体が「大人のフリ」なんじゃないかと思って踏みとどまったんだ。

でも社会に出てみたら、そんな「大人のフリ」をする男たちがもっと増えていた。

結局、この「大人のフリ」の本質は、自分が「すごい」と思っている目上の人や大人の模倣に過ぎない。なぜ僕がわざわざ「大人」という言葉を多用するかというと、僕の経験上、大人のフリをする男の多くは中身が「巨大な赤ん坊(巨嬰)」だからだ。彼らが装う「成熟」は、彼らの問題解決能力の低さを全くカバーできていない。

いくつか具体的なパターンを挙げてみよう。

  1. 君が詳しくない業界に足を踏み入れようとすると、「あの業界は闇が深いぞ(水が深いぞ)……」と言ってくる。

このセリフを聞いた瞬間、君は腰が引けるよね。それが彼の狙いだ。それから彼は、真実と嘘を混ぜた話を君の知識が及ばない領域までまくし立てる。そうやって動画サイトで仕入れた薄っぺらな知識を披露し、君の羨望の眼差しをゲットしようとするわけだ。

どんな業界の話をしても、彼は「闇が深い」の一点張り。もし誰でも知っているような簡単な仕事の話をすれば、「あんなの稼げないし、簡単すぎる」と切り捨てる。

もしここで、「そんなに裏事情に詳しくて攻略法も知ってるのに、なんで君はまだそんなに貧乏なの?」なんて突っ込んだら、彼は引きつった笑いを浮かべるだろうね。

  1. 君が内向的(I型)で、彼も本当はそうかもしれないのに(外交的なE型を装って)、こう言ってくる。「お前のその性格じゃ、今の仕事が関の山だな。会社や役所に入っても、うまく立ち回れないだろうし(笑)」

確かに、人は自分の性格に合った道を選ぶのが一番だし、そうでなきゃ疲れるだけだ。大人のフリをする奴は、常にどこかでマウントを取りたがる。他に勝てるところがないから、君の「内向的」な部分を仕事に結びつけてPUA(心理的支配)してくるんだ。

へぇ、そんなに顔が広くて立ち回りが上手いなら、なんで君は組織のトップに立ってないの? 30歳までに局長クラスになれたはずでしょ? なんで行かないの? 行きたくないだけ?

  1. 君の交友関係が狭いと決めつけて、「俺は〇〇市の〇〇局長と知り合いだ」「あっちの社長は資産20億で……」と語り出す。

人脈自慢は、典型的な「大人のフリ」だ。そんなに凄い人脈があるなら、なんで今日、その億万長者の社長は君を飲みに誘ってくれなかったの? なんで僕と一緒にここで油を売ってるの?

それに、そんなに大物たちと知り合いなのに、なんで君のビジネスは失敗したの? その「アニキ」たちは、君が困っている時に助けてくれなかったのかい?

トップクラスの大物たちを知り尽くしてて、なおかつこれほど貧乏な人なんて、君くらいしか見たことないよ。

  1. 自分の仕事がいかに過酷か、朝から晩までどれだけ真面目に働いているか、上司に媚を売って酒に付き合うのがどれだけ大変かを語り、最後にこう聞く。「これ、お前にできるか?」

確かに僕にはできないかもしれない。でも、僕は朝から晩まで働かなくても、上司に媚を売らなくても、君より稼いでるし、経済的自由も手に入れた。この生活、君にできる?

こういう事例を、僕は自分自身の身に起きたことも含めて数えきれないほど見てきた。でも、今の僕の心境は昔とは違う。世間一般の「成熟」の定義なんて僕には決められないし、僕自身「あまり成熟していないし、そのフリをする必要もないタイプ」だと自認しているからだ。

もし君のキャラクターや目標が「成熟」にあるなら、僕の方が君より稼いでいて、金を持っているという事実は、君の「成熟」がただのジョークだってことにならないかい? 成熟した人間はよく「俺は結果しか見ない」ってマウントを取るよね。

じゃあ、結果を見てみようか。

そんなに成熟しているのに、なんで君の生活はボロボロなの?

そんなに成熟しているのに、なんで頼れる友達がそんなに少ないの?

そんなに成熟しているのに、なんでまだそんなに低収入なの?

そんなに成熟しているのに、住宅ローンは完済した?

そんなに成熟しているのに、子供を海外留学させてあげられた?

そんなに成熟しているのに、なんでその歳で何一つ成し遂げていないの?

男尊女卑的な考え方と、損得勘定についての考察

身近にこういうタイプが一人はいませんか。長く付き合ってみると、彼が作り上げている(あるいは自負している)キャラクターが見えてきます。

それは、「成熟していて、大局が見えて、ポジティブ。周囲に配慮し、他人の気持ちを汲み取れる。亭主関白気味だけど、気前がいい」というもの。

実のところ、これら全ての要素は彼の「成熟」という一点から派生しています。実際、彼はいい奴なんです。その成熟さゆえに、日常生活や仕事で助けられることもあるでしょう。

でも、今日ここで解剖したいのは、「なぜこれほど成熟しているのに、彼の人生はうまくいかないのか」という点です。


👥 人間関係について

彼は、自分では認めないかもしれませんが、典型的な「お人好し」です。そのため、周りは何かあれば彼を頼ります。彼自身が不得意なことでも、プライド(面子)が邪魔をして断れません。「味方は多いに越したことはない」という考えから、価値のない雑用にとてつもない時間を浪費してしまいます。

彼は、パートナーや子供、友人など、周り全員を幸せにしたいと願っています。だから常に考え事が多く、時には考えなくていいような些細なことまで敏感に察知してしまいます。本人はそれを「成熟」だと思っているのでしょうが、現実問題として、彼には周囲全員を幸せにするほどの実力はありません。

また、彼は「聖母のような心」を持っていて、周りにも自分と同じような「愛と平和」を求めます。しかし現実はそう甘くありません。救いようのない人間に時間を割いて更生させようとしたり、自分とは違うタイプの人間に干渉して変えようとしたりします。親しい友人に対しても、細かな部分で自分と歩調を合わせるよう期待してしまうのです。


💍 結婚について

このタイプのお人好しの結婚は、最初から悲劇である可能性があります。例えば、愛があるからではなく、長く一緒にいたから「責任を取って」結婚したり、デキ婚で「筋を通すため」に入籍したり。しかし、元々合わない二人なので、子供ができても夫婦仲は冷え切ったまま。そこで彼は「子供が足りないから仲が悪いのか?」と考え、さらにもう一人作るという決断をします。

結婚前には、愛が薄くても「男の甲斐性」を見せようと、不動産の名義を妻だけにしたりします。「離婚を前提に考えるのは縁起が悪い」という理屈です。

結局、二人の関係が破綻した時も、彼の亭主関白なプライドが発動します。「離婚していい。家はお前にやる。俺は身一つで二人の子供を引き取る。文句ないだろ!」と。しかし、実際の彼の収入は、自分と子供二人、そして両親を養うのが精一杯。日本の家庭構造に似ていますが、元妻は家を手に入れ、自由になり、新しい彼氏を作って自分のためだけに生きています。

今の彼は、元妻名義の家に子供と母親と住み、元妻が外で新恋人と住む部屋の家賃まで払っている。子供の世話もしない元妻のために。これでは、女性の役割はただ「出産」するだけで、あとは家を奪って去っていくだけの存在になってしまっています。

そんな中、彼は離婚危機の時期に再会した高校時代の女友達(シングルマザー)と一緒になる決断をします。お互いに不幸な結婚を経験した者同士。しかし彼の中では、今や「妻一人と子供三人」を養っている感覚です。根拠のない「男の責任感」ゆえに。


📚 学習について

彼はこれまで、学ぶ時間をほとんど取ってきませんでした。彼の価値観では「スキル系の勉強ばかりすると、マネジメント層に行けなくなる」という思い込みがあり、あえて技術的な知識を避けてきたのです。かといって、家庭の事情で忙しく、教養としての文史哲に詳しいわけでもありません。

新しいトレンドにも興味を示しません。「そんなの一時的な流行りだ」と切り捨てます。そのため、若い世代と食事をしても、ゲームや流行りのドラマ、ニュースの話題についていけず、愛想笑いをするしかありません。そして「今の若い奴らは何を考えているか分からん」と、時代から取り残された疎外感を感じるようになります。

女性特有の話題(コスメやファッションなど)も「面倒なもの」として切り捨てます。彼が求めるのは、外見を飾ることに時間をかけず、精神的に共鳴できる女性です。女性を理解しようとする男は「時間の無駄」だとでも思っているのでしょうか。

次第に、周りが良いものを勧めても、彼は生返事をするだけで実際に見ようとはしなくなります。勧められたものを心のどこかで見下しているのかもしれません。その結果、周囲は彼に何も勧めなくなり、距離を置くようになります。すると彼は「なぜみんな俺に話しかけてくれないんだ」と不満を漏らすのです。


🧠 心理状態

これらの要因が積み重なり、彼は自分の人生に対して深刻な不安を抱えています。例えば、チーム内での彼は核心的な戦力ではなく、実質的には「雑用係」です。メンバーAからBへの連絡をわざわざ自分が仲介することで「自分は役に立っている、コミュニケーションを円滑にしている」と思い込もうとします。

長年働いてきても、関わった社会やプロジェクトはごくわずか。前述の「男のプライド」のせいで膨大な時間を浪費し、結局何も成し遂げられていないのです。周りと比べ、自分はなんて無力なんだと打ちのめされています。

誰よりも「成熟」しているはずなのに。

コミュニケーションと孤独

「仕事ですごく疲れてるのに、よく考えたら今日自分って大したことしてないよな、なんでこんなに疲れてるんだ?」って思うことない?今、この記事を書いてる私自身がまさにそれ。めちゃくちゃ疲れてる。

仕事で一番エネルギーを使うのは、結局「コミュニケーション」なんだよね。そう、対人関係。これが一番しんどい。コミュニケーションが疲れるのは、相手がこっちの意図を汲み取ってくれないし、期待通りの結果も出してくれないから。上司だろうが部下だろうが、社内だろうが社外だろうが、この「伝わらなさ」には本当に無力感を感じる。

自分の主な仕事が「誰かと話すこと」だと気づいたとき、周りがみんな「話の通じないバカ」に見えてくることがある。こっちの意図をパッと理解できない相手に、どう説明すれば伝わるかを考える。その思考プロセスと、実際に言葉にしてアウトプットする作業。これって、寿命を削ってるようなもんだよ。本来ならその時間でゲームしたり、好きなことしたりできたはずなのに。

一日が終わってふと気づく。「今日やろうと思ってたこと、何もできてない」「ゲームするはずだったのに、できなかった」って。じゃあ、好きなことができなかった分、仕事が充実してたかっていうと、全然そんなことない。ただただ「コミュニケーション」っていう、退屈で不毛なことに時間を溶かしただけ。

これが「何もしてないのに疲れる」の正体。あまりの疲れに、「別の仕事にすればよかったかな」「この業界を選んだのが間違いだったかな」なんて考えちゃうけど、答えは「NO」。どこへ行っても同じ。なぜなら、この世の中は話の通じない奴らが大半で、そいつらが常に君を取り囲んでいるから。

一日が終わる頃には、何も成し遂げていない虚無感だけじゃなく、深い「孤独」すら感じるようになる。「なんで自分の周りにはバカしかいないんだ?」って。まともに話せる相手がいなすぎて、絶望するんだ。

そうやって日々コミュニケーションに追われるうちに、自分自身のスキルも錆びついていく。孤独感は増すばかりで、この「バカの包囲網」からどう逃げ出せばいいかもわからない。そして自分の人生に迷い始める。「あれ?自分はこれまで、バカと上手に喋るために一生懸命勉強してきたんだっけ?」って。そんなとき、ふと子供の頃を思い出す。ちゃんと話が通じたあの頃の親友たちのことを。そして今のクソみたいな仕事の状況と比較して、思わずこう吐き捨てたくなる。「あーあ、やってらんねぇな!」

地方都市や田舎の底辺層の人たちは、果たしてまだ「人間」として扱われているんだろうか

SNSや短動画が溢れかえる中で、ライブコマースのやり口がどんどん異常になってきてる。潘子や嘎子みたいな連中とか、変な配信者が山ほどいるけど、「あんなの誰が買うんだ?」ってずっと思ってた。でも、蓋を開けてみればとんでもない売上なわけで、結局、彼らの言う「ファミリー」の正体は「下沈市場(地方や農村の低所得層市場)」の人たちだったんだよね。

拼多多がブレイクしてから「下沈市場」って言葉が流行りだした。快手はTikTokが取れなかった層を、拼多多はタオバオや京東がこぼした層を掴んだって言われてる。

プラットフォームレベルで言えば、かつての「秀才」や「一笑傾城」みたいな配信者も、快手の中のその層にぶっ刺さった。じゃあ、ここで疑問なのが、「下沈市場」って一体誰のこと? どこにいるの? ってこと。

結局のところ、それはネットに触れた途端に依存してしまった中国農村部の高齢者や、失業者、低所得者層、それにスラム化した都市部に住むリテラシーの低い人たちのことだ。彼らこそが「下沈市場」と呼ばれている。

で、配信者が彼らに何を売ってるかっていうと、18元のXO、5元の香水、1箱10元のソーセージ、1箱18元のニュージーランド産ミルク、120元のシャオミのテレビ……。普通に考えれば、粗悪品、パクリ、偽物――いわば「工業界のクトゥルフ」とでも呼ぶべきゴミのような商品が、次から次へと彼らに売りつけられている。

こう考える人もいるだろう。

「俺たちは成分表を気にするけど、彼らは見るのか?」――見ない。 「18元のミルクが本物だと信じてるのか?」――信じてる。 「『ファミリー』と連呼する配信者を信じてるのか?」――信じてる。 「18元のXOの味なんて分かるのか?」――そんなのどうでもいい。 「体を壊したらどうするんだ?」――余計なお世話だ。彼らはタフだし、最悪、軽い病気なら我慢して、重病なら死ぬだけだ。

そこで聞きたいんだけど、この「下沈市場」の人たちは、果たしてまだ「人間」としてカウントされているんだろうか?

以前、インド専門のYouTuberが、北インドのSF紛いの事件や神話、民俗について詳しく語っているのを見た。インドのカースト制度の下では、ダリット(不可触民)は人間扱いされないという。

それをこっちに当てはめてみると、国内のいわゆる「下沈市場」は、まさにインドのダリットに対応している。ただ、こっちのカースト制度の方が、少しばかり文明的なフリをしているだけだ。

だとしたら、なぜ彼らを人間扱いする必要があるんだろう? 彼らがゴミを消費して金を払うことの何が悪いの? 普段は切り詰めて生活して、浮いた金を配信者への投げ銭やゴミの購入に充てて社会に還元してるんだから、いいことじゃないか。

で、結局、下沈市場の人たちは人間なのか? ……まあ、人間とは言い難いよね。

どん底で生きる人たち

「底辺」という言葉で身近な人々を表現するのは、彼らへの不スペクトに欠ける気がして気が引ける。だが、彼らをそう呼ばざるを得ないのには、やはりそれなりの理由がある。この記事では、私の周りにいる「底辺の人々」について語ってみたい。
1. 甘粛省天水市の鉛中毒事件
少し前、甘粛省天水市で子供たちが鉛中毒になった事件が大きな騒ぎになった。親たちが集まって抗議の声を上げたが、資料を見る限り、あの子たちは本当に不憫でならない。鉛中毒は病院へ行けばすぐ治るようなものではなく、子供たちは長期にわたる苦痛を強いられることになる。
ネット上では、「日本の処理水を叩くあの熱量で、なぜこの件を追及しないんだ?」「20年前にも同じことがあったじゃないか」といった冷ややかな声が溢れた。その後、親たちは子供を近隣の省や上海の病院へ連れて行ったが、多くの病院で受診を拒否されたという。これは甘粛省の一役人の力だけでできることではない。
親たちはといえば、ネットで不適切な発言をすれば即座にアカウントが凍結される。だから今は、苦しむ我が子を見守りながら、ただ処理結果を待つことしかできないのだ。
私はこれまで何度も、子供が被害に遭う事件を耳にしてきた。そのたびに父親たちは「もし自分の子がそんな目に遭ったら、相手をぶち殺してやる!」と息巻く。しかし、天水の事件で責任者に立ち向かった父親の話は聞こえてこない。鉛中毒は大したことではないと思っているのか、あるいは将来子供が公務員になる際、親に前科があると困るからとでも考えているのだろうか。
口先だけの男は多い。信じられないなら、子供が絡む公的な事件が起きるたびに、どれだけの父親が実際に立ち上がったかを見てみればいい。はっきり言って、彼らが「底辺」なのは自業自得だ。

2. 杭州の汚水騒動
鉛中毒のすぐ後、今度は杭州の良渚地区で水道水に糞尿が混じるという事件が起きた。
最初は「また派遣社員のミスか?」程度に思っていたが、事態はどんどん奇妙な方向へ進み、ついには当局が「説明」を出すに至った。しかし、説明の内容などどうでもいい。この記事を書いている今日現在も、問題は解決していないのだ。
住民たちは今も、40度の猛暑の中でミネラルウォーターを買うために行列を作っている。
かつて農夫山泉の会長の息子がアメリカ国籍だからと不買運動をし、ワハハに乗り換えたものの、ワハハの令嬢もアメリカ国籍だと知って絶望した人々。そんな彼らが、今、自宅から糞尿の混じった水が出てきて、結局は農夫山泉やワハハのボトルを買わざるを得なくなっている。彼らは今、どんな心境なのだろうか。
これはある種の「社会的従順性テスト」なのかもしれない。「糞尿を飲ませても文句を言わない」と分かれば、次はもっとひどいテストが計画されるだろう。どうせ底辺の人間は、苦労に耐えることだけは得意なのだから。

3. 高鉄の窓ガラス破壊
公式ニュースを引用しよう。
7月2日20時28分頃、貨物列車が金華市内の東孝駅で停車しきれず正線に侵入し、旅客列車K1373次が脱線した。復旧作業を経て、列車は23時27分に運転を再開した。
この間、車内は猛暑となったが、乗務員は「ホームのない場所での停車」「ドアの高さが1.5メートル以上」「夜間で照明がない」などの理由から、乗客の転落リスクを考慮し、ドア開放や窓の破壊は必要ないと判断した。
22時04分頃、3号車の男性客が非常用ハンマーで窓を割ろうとしたが、乗務員が制止。窓ガラス1枚が破損した。飛び降りを防ぐため、乗務員が窓の前に立ちはだかり、警察と共に警備に当たった。23時11分に空調が復旧。金華駅到着後、警察は男性を厳重注意し、ガラスは修復された。
鉄道部門は「緊急時はマニュアルに従い適切に対処するので、係員の指示に従ってほしい」と呼びかけている。
3時間もの猛暑。写真を見れば、警察官自身も汗だくだ。それでも彼は上からの「命令」を遂行し続けた。警察官を責めるつもりはない。彼らもまた、仕事を失わないために動いているだけなのだ。
誰かが言った。「この列車はまるでこの国のようだ。誰かが英雄になって皆に利益をもたらすが、最後にはその英雄が犠牲になる」と。

4. 南京の写真館
毎年、特定のデリケートな時期になると、愛国心を煽って稼ぐための映画が公開される。最近では『南京照相館』がそれだ。SNSでは「歴史を忘れるな、我ら自ら強くあるべし」といった言葉が溢れている。
私は不思議でならない。そう叫ぶ彼らに問いたい。
わずかな収入しかないお前に、何ができるというのか? 納税額はいくらだ? 子供をアメリカに住ませている富裕層より納税しているのか? それでよく「自ら強く」なんて言えたものだ。
大都市に家を買えるのか? 高いローン金利は日本人が設定したのか? 一生ローンの奴隷でいることが「自ら強く」あることなのか?
もし自分の子が鉛中毒になったら、お前はどうする? TikTokで泣き言を垂れ流し、アカウントを消されて脅されるだけじゃないのか?
蛇口から糞尿が出てきたらどうする? SNSで二、三言愚痴をこぼして、また水を買う列に並ぶのか? 日本の処理水放出にあれだけ騒いだ威勢はどうした?
学歴はどうだ? 三流大学でコピペの論文を書き、社会に何の貢献もしていないお前が、どうやって「自ら強く」なるんだ?
社会に出れば996(朝9時から夜9時まで週6勤務)の社畜になり、パワハラに耐え、最低限の社会保険でこき使われる。それがお前の言う「自ら強く」ある姿か?
高鉄に3時間閉じ込められて、新鮮な空気を吸うために窓を割る度胸すらないお前が、どうやって強くなれるというんだ?
底辺の人間とは、そういうものだ。

独りよがりの投資なんて、結局はただのギャンブルだよ

人生にはいろんな形のギャンブルがあるけれど、僕に言わせれば、それが本当にギャンブルかどうかはもう一歩踏み込んで考える必要がある。つまり、「ギャンブル」を再定義してみるんだ。

まずは、百度(バイドゥ)で「ギャンブル」の理論的な定義を調べてみよう。

「ギャンブルとは、カードやサイコロなどを用い、価値のあるものを賭けて勝敗を争うゲームであり、人類の娯楽の一種である。文化や歴史によって意味合いは異なるが、西洋社会では経済的な定義として『不確実な結果を伴うイベントに対し、より多くの金銭や物質的価値を得ることを主目的として、金銭や価値あるものを投じること』とされている。」

これが一般的な定義だ。じゃあ、この定義に照らし合わせて、日常生活に潜む「ギャンブルではないけれど、本物のギャンブルより恐ろしいギャンブル」を見ていこう。

さあ、賭け狂いましょう(Let’s start placing bets)!

**【教育】**
大企業に勤めて月々1、2万元の給料をもらっている大人が、自分の労働価値を「学区房(名門校の学区内にある物件)」に全突っ込みする。子供を良い学校に入れ、競争の渦に放り込む。目的は、自分がかつて叶えられなかった夢を子供に託し、将来より多くの金銭や地位を得させることだ。

でも、子供の将来がどうなるかなんて、本来は複雑で不確定な要素だらけのはず。それなのに、学区房を買い、塾に大金を注ぎ込んだ親たちは、いつの間にか「ギャンブラー心理」に陥ってしまう。子供に過剰なレバレッジをかけ、「裏切ることは許さない」と期待を押し付ける。

その結果、若い親たちも、かつて自分が嫌いだった大人へと変貌していく。「こんなに苦労して食べさせて、何不自由なく育ててあげたのに、なんで成績が上がらないの? パパとママに申し訳ないと思わないの?」感情を抑えられない親は、ヒステリックに叫び散らす。

これって、カジノのテーブルでずっと「バンカー」に賭け続けているのに、毎回「プレイヤー」が出て発狂しているギャンブラーと同じじゃないか? 「なんでバンカーに賭けてるのにプレイヤーが出るんだ! 俺をバカにしてるのか!」と。ただ、カジノなら「確率の問題だ」と諦めもつくが、子供相手のギャンブルでは、親は「全勝」以外の結果を認められないんだ。

**【不動産】**
2008年頃から不動産価格は爆上がりした。地方の小さな町でさえ平米1200元から8000元になり、大都市なら言わずもがな。立ち退きバブルも重なって、周りにはリアルな「成金二世」が溢れかえった。

80年代・90年代生まれが経済力を持ち始めると、当然この不動産バブルの波に乗ろうとした。でも、その頃には二線級以上の都市の価格は平米3〜4万元。100平米の家を買うのに400万元もかかるが、給料はそれに見合うほど上がっていない。

それでもみんな計算した。「400万の家が倍になるのは無理でも、10%くらいなら上がるだろう。400万の10%は40万。これってすごい金額だぞ」と。

こうして人々はレバレッジをかけて家を買う。「不確実な結果に対して、金銭を投じ、より多くの利益を得る」——これこそ定義通りのギャンブルじゃないか? 一般のサラリーマンが銀行から借金し、自分の未来の20〜30年を賭けて、一攫千金を狙う。なのに誰もこれを「ギャンブル」とは呼ばない。しかも「借金してまでやるギャンブル」なのに。

コロナ後、多くの地域で価格が暴落した。家2軒分の価値が1軒分にまで下がった友人もいる。完全に「負け」だ。それでもみんな、これがギャンブルだったことも、自分が負けたことも認めようとしない。そしてこう強がるんだ。

「まあ、家はそこにあるわけだし!」
「30年かけてゆっくり返せばいいさ。30年後には金の価値なんて下がってるよ!」

彼らは信じている。30年後にはインフレで借金が目減りし、家を売れば誰かが高値で買ってくれて、土地はずっと自分のもの、建物の管理もずっと万全で、何より自分自身がこれからの20〜30年、病気もせず、リストラもされず、何一つ悪いことは起きないのだと。

協力するって、本当に疲れるよね

タイトルを見れば、僕が何を言いたいか分かるはず。協力して何かをやるって、本当に疲れることなんだ。

ある人は「仕事でバカに遭遇すると、逃げ場がなくて最悪だ」って愚痴をこぼしてくる。

仕事場にいるバカにはいくつかパターンがあるよね。自分より下の立場のやつがバカで、仕事が遅い上にミスばかりして台無しにするとか。同僚がバカだと、「なんでこんな奴と一緒に仕事しなきゃいけないんだ」って呆れる。上司がバカな場合は、もう右から左へ受け流すしかない。「またバカな上司が言ってるよ」ってね。

その後、僕は会社を立ち上げた。会社を経営すれば、他社や組織との協力は避けられない。一番致命的なのは、取引先(上流)がバカなケースだ。もちろん、表面上は良好な関係を保ってる。それは単に、こっちが相手にするのが面倒で我慢してるだけなんだけど。

上流の担当者がうちに来ると、よく事業にあれこれ口を出してくる。こっちは反論もしにくい。そいつはうちの製品ラインナップについて無知すぎて、もしうちがマクドナルドだとしたら、「なんで他所にはあるポテトやコーラがここにはないんだ?」って言い出すレベル。

たまに「うちのポテトとコーラはこだわり抜いた一級品ですよ」って説明しても、そいつは覚えちゃいない。次に来た時も、また同じことを繰り返す。

正直、PTSDになりそうな感覚だよ。そいつが来ると「またかよ」って思う。僕は外回りでいないことが多いから、そいつのPUA(心理的支配)を回避できるけど、会議に出てる社員はこっそりスマホで内容を報告してくる。

少しでも建設的な意見があるのかと期待してみるけど、こっちの業績が上がっても、そいつの言うことは相変わらずのテンプレ通り。会社にずっと詰めている相方の共同経営者は悲惨だよ。毎日そいつの雑用を押し付けられてる。

結局、ビジネスチェーンで上流に依存している以上、自分のメンタルを鍛えるしかない。そうすれば、相手のPUAを受けても心のダメージを減らせるから。

起業してからずっと痛感しているのは、対人のビジネスは、大抵の場合「疲れ」と「苦痛」に満ちているってこと。特に、相手のリーダーがマウントを取ってきたり難癖をつけたりするタイプだと、飲み会でも現場でも……ずっと顔色を伺ってなきゃいけない。

僕はそんな人生、御免だ。嫌なことや嫌な奴を見続けるのは嫌だ。だから、トレードの道を選んだ。トレーダーになって、社会的な分業から抜け出すチャンスを自分に与えたんだ。

……それから長い時間が経った。

安定して利益を出せるようになった時、ようやく元の生活環境から抜け出すことができた。他人の顔色を伺わなくても生きていけるんだ、無理に協力しなくても大金を稼げるんだ、人生ってこんなに素晴らしくなれるんだって気づいた。

協力は疲れる。もし君もそう感じているなら、無理に順応しようとしなくていい。疲れると感じている時点で、それは君には合っていないんだ。本当に順応できるなら、疲れなんて感じないはずだから。

自分を追い込む必要なんてない。人生、たった数十年しかないんだから。

もし世界が終わるとしたら、それでも子供を産む道を選ぶ?

今日はちょっと突飛な話をしよう。もし「もうすぐ世界が終わる」としたら、それでも君は子供を産む道を選ぶかい?

いろんな人にこの質問をしてみたんだ。「もし10秒後に、5年後の太陽系消滅が科学的に確定したとしたら。ブラックホールの出現でも、三体人の襲来でも、次元崩壊でも何でもいい。とにかく5年後に絶対的な終末が来るとわかった時、最高のパートナーが隣にいたとして、君たちは子供を作ろうと思うかな?」

大抵の人は、2秒ほど考えてこう答える。「産まないよ。あと5年で終わりなのに、産んでどうするの?」って。

そりゃそうだ。5年なんてあっという間。それなら仕事なんて辞めて、今まで行けなかった場所へ旅行したり、やりたかったことを全部体験したりして、残りの人生を派手に楽しんだ方がいい。

じゃあ、その期間を少し延ばしてみよう。もし終末まで「あと20年」だとしたら、どうかな?

ここで多くの人が考え込む。20年。長くもあり、短くもある。中には「産もうかな」と思う人も出てくるだろう。でも考えてみてほしい。君がいま25歳だとして、終末の時、君は45歳で子供は20歳。君は人生の半分を謳歌したけれど、子供は学校を卒業して、やっと大学生活や恋人との時間を楽しみ始めた矢先に、いきなり世界が終わるんだ。これって、絶望的じゃないか?

あと20年で世界が終わるとわかっていて子供を産むのは、どこか残酷というか、思慮に欠けている気がしてならないんだ。

じゃあ、もっと延ばして「60年」ならどうだい?

「あと60年」と聞いた途端、みんな急にホッとする。「60年か。今25歳なら、地球が滅びる頃にはもう自分はこの世にいないし、関係ないや。だから産もう」ってね。

でも、計算してみよう。25歳で子供を産んで、終末まであと60年。子供が30歳になった時、君は55歳で、終末までは残り30年だ。その時、君は自分の子供に「孫が欲しい」なんて言えるかな?

自分の子供には「地球はあと30年で終わるから、産むのはやめなさい」って言うのかい? 自分の子供が30歳の時に世界が終わるなんて、人生これからって時なのに、あまりに残酷すぎるから。でも、君が子供を産んだ理由は「孤独を埋めるパートナー」が欲しかったからだよね。子供は君に寄り添ってくれたけれど、その子が君と同じ年齢になった時、寄り添ってくれる次世代はもういないんだ。

だとしたら、地球の寿命があと60年しかない時に子供を産むことも、結局はその子に対して残酷なことなんじゃないだろうか。

仮に君の寿命が85歳だとして、今25歳の君にとって、自分の人生は残り60年。君は自分が子供を産むかどうか、その子にどんな教育を与えるかは決められる。けれど、その次の世代、つまり孫の世代がどうなるかまでは、まずコントロールできない。

それって結局、君個人にとっての「世界滅亡」までのカウントダウンが、あと60年だってことと同じなんじゃないのかな。

大学って、どんな場所だと思う?

以前、「君とコーヒーを飲むのにXX年かかった」とか「貧困家庭からエリートが出るのはもう無理だ」みたいな記事をいくつか読んだのを覚えている。当時はそれを読んで、「まさにその通りだ、自分がずっと言葉にできなかった感覚を代弁してくれている」と強く共感したものだ。

それから数年が経ち、さらに多くの人と接するようになった今、改めて自分自身の視点で、この目で見てきたことを書き残しておこうと思う。

そもそも、大学って何のために行くところなんだろう?

私の両親はいわゆる「あの時代」の大学生で、それも211工程(重点大学)の出身だ。当時は師範学校に行くだけでも相当すごかった時代。子供の頃、母に「学年で何番目くらいだったの?」と聞いたら、母は誇らしげに「3番以内に入らなかったら、調子が悪かった時くらいよ」と答えてくれた。

私の知る限り、当時は進学する人自体が少なかった。多くの人が「工場二世」、つまり親の仕事をそのまま引き継げば、勉強しなくても一生安泰だと思っていたからだ。ただ、彼らは時代の変化を読み違えていた。結局、多くの人が時代の波に飲み込まれ、淘汰されていった。

私が大学に入る頃には、大学生の定員が大幅に増える「拡充」が始まっていた。卒業当時は、まだ企業もそこまで学歴至上主義ではなく、どちらかといえば個人のスキルを重視してくれていたので、私にとっては追い風だった。しかしその後、大学院生の定員も増え、IT業界が急速に発展すると、学歴競争(内巻)が激化した。さらに3年間のパンデミックを経て、多くの中小企業が倒産し、外資系企業も大陸市場から撤退していった。

こうなると、学歴と、それに付随する過当競争はひどくなる一方だ。まずは「211か985(超名門)出身か」が最優先され、大学院でも「学部の出はどこか」という、いわゆる「血統の純潔さ」が問われるようになった。

最近では、大学院生の数が大学生の数を上回る「逆転現象」まで起きている。じゃあ、次は博士号で競い合うのか?

正直、この国における「大学」の定義が、私にはずっとよく分からない。

大学は「技術を学ぶ場所」なのだろうか?

専門科目と民間スクールのカリキュラムは重なる部分も多いが、もし学歴というフィルターを外してブラインドテストをしたら、民間スクールの講師の方が大学教授よりよっぽど優秀だ。少なくとも民間スクールは、現場ですぐに使えるスキルを教えてくれる。

だから、大学を「技術を学ぶ場所」と呼ぶには無理がある。私は大学の専門を「独学や民間スクールで代用できるか否か」で分けて考えている。

例えば、建築、医学、農業といった、外のスクールでは学べない知識は、大学に行くしかない。でも、コンピュータ、デザイン、美術などは、外のスクールの方が教え方も内容もはるかに優れている場合がある。そうなると話は別だ。

では、大学は「学問を追究する場所」なのだろうか?

私の周りには、C9(トップ9校)の院生や博士、あるいはそこから海外へ出た友人、もちろん一般校の院生もたくさんいる。

勉強嫌いの私は、彼らにいつも「君たちが研究してることって、結局どういうことなの?」「その論文は何がすごいの?」「そのラボで受賞したやつ、中身は何なの?」と聞きまくっている。

だが、返ってくる答えに満足したことは一度もない。少なくとも、彼らの研究が実際にビジネスに応用されたり、世界を変えたりする場面にはお目にかかったことがない。

仲の良い院生の友人がいる。彼は研究室で一番のキレ者だ。といっても、私たちのコミュニティの中では特別ではない。ただ、彼の研究室は江浙滬(上海・江蘇・浙江)エリアのIT分野で最強と言われていて、その中で彼がトップなのは、周りの先輩や後輩があまりに仕事ができないからだ。ITの院生なのにプログラミングの基礎も分からず、Linuxも使いこなせず、環境構築すらできない連中ばかりなのだ。

ある晩、彼と「大学院に行く意味」について語り合った。彼に言わせれば、高校生レベルの知能のまま大学に入り、テストが終われば忘れるような大して重要でもない単位を揃え、推薦や受験で「大学院生」という肩書きにアップグレードするだけ。

中身は高校生のまま、3年間適当に授業を受け、他人の論文を読み漁り、既存の理論に「クソみたいな飾り付け」をして、さも世界を変えるかのような論文を書き上げ、学位を手に入れる。

私は彼に聞いた。「この前、君がラボで出した成果、上海のカンファレンスで発表してたし、国とも提携してたじゃない。あれはどうなの?」
彼は言った。「上海から来た審査員だって素人だよ。ハッタリが効けばいいんだ。国の機関だってただのサラリーマン。予算を使い切らないと次から削られるから出してるだけ。あのプロセスの中で、中身が空っぽだって知ってるのは俺だけだよ」

結局、大学とは何なのか?

地方から出てきた私にとって、都会の大学に行くことは「大都会に触れるチャンス」であり、大学はその街での「仮住まい」だった。日本に行く時の日本語学校のようなものだ。学校が本当に日本語を教えてくれるわけではなく、単に「留学ビザ」という猶予期間をくれているに過ぎない。

同じように、大学はその街での「在留カード」なのだ。そのカードの有効期限内に、何らかの手段で都会に生き残る術を見つけられなければ、結局は田舎に帰るしかない。

なぜ、貧しい家庭ほど「大学」を盲信するのか?

これまで何人もの大学生に「大学に行く意味って何ですか?」と聞かれた。彼らに「日本の在留カード」の例え話は通じない。彼ら自身、そんな世界を知らないからだ。でも会話を通じて分かるのは、彼らの親が大学に対して抱く信頼は異常なほど厚く、院生や博士という肩書きに対する執着はもはや信仰に近いということだ。

ある学生に「大学院なんて教授のパシリをして論文を出し、学位をでっち上げる場所だよ」と教えたら、彼は真剣な顔でこう聞き返してきた。
「もし、僕が本当に真面目に研究に取り組んだら、何か得られるものはありますか?」
私は答えた。「学部時代にすでに騙されてるのに、まだ大学院が救ってくれるなんて期待してるのか?」

こういう質問をする子の親は、たいてい大学を出ていないか、大学の仕組みをよく分かっていない。人は自分が経験したことのないものを美化しがちだ。そして、一度美化してしまうと、他人が突きつける真実を信じたくなくなるものなのだ。