以前、「君とコーヒーを飲むのにXX年かかった」とか「貧困家庭からエリートが出るのはもう無理だ」みたいな記事をいくつか読んだのを覚えている。当時はそれを読んで、「まさにその通りだ、自分がずっと言葉にできなかった感覚を代弁してくれている」と強く共感したものだ。
それから数年が経ち、さらに多くの人と接するようになった今、改めて自分自身の視点で、この目で見てきたことを書き残しておこうと思う。
そもそも、大学って何のために行くところなんだろう?
私の両親はいわゆる「あの時代」の大学生で、それも211工程(重点大学)の出身だ。当時は師範学校に行くだけでも相当すごかった時代。子供の頃、母に「学年で何番目くらいだったの?」と聞いたら、母は誇らしげに「3番以内に入らなかったら、調子が悪かった時くらいよ」と答えてくれた。
私の知る限り、当時は進学する人自体が少なかった。多くの人が「工場二世」、つまり親の仕事をそのまま引き継げば、勉強しなくても一生安泰だと思っていたからだ。ただ、彼らは時代の変化を読み違えていた。結局、多くの人が時代の波に飲み込まれ、淘汰されていった。
私が大学に入る頃には、大学生の定員が大幅に増える「拡充」が始まっていた。卒業当時は、まだ企業もそこまで学歴至上主義ではなく、どちらかといえば個人のスキルを重視してくれていたので、私にとっては追い風だった。しかしその後、大学院生の定員も増え、IT業界が急速に発展すると、学歴競争(内巻)が激化した。さらに3年間のパンデミックを経て、多くの中小企業が倒産し、外資系企業も大陸市場から撤退していった。
こうなると、学歴と、それに付随する過当競争はひどくなる一方だ。まずは「211か985(超名門)出身か」が最優先され、大学院でも「学部の出はどこか」という、いわゆる「血統の純潔さ」が問われるようになった。
最近では、大学院生の数が大学生の数を上回る「逆転現象」まで起きている。じゃあ、次は博士号で競い合うのか?
正直、この国における「大学」の定義が、私にはずっとよく分からない。
大学は「技術を学ぶ場所」なのだろうか?
専門科目と民間スクールのカリキュラムは重なる部分も多いが、もし学歴というフィルターを外してブラインドテストをしたら、民間スクールの講師の方が大学教授よりよっぽど優秀だ。少なくとも民間スクールは、現場ですぐに使えるスキルを教えてくれる。
だから、大学を「技術を学ぶ場所」と呼ぶには無理がある。私は大学の専門を「独学や民間スクールで代用できるか否か」で分けて考えている。
例えば、建築、医学、農業といった、外のスクールでは学べない知識は、大学に行くしかない。でも、コンピュータ、デザイン、美術などは、外のスクールの方が教え方も内容もはるかに優れている場合がある。そうなると話は別だ。
では、大学は「学問を追究する場所」なのだろうか?
私の周りには、C9(トップ9校)の院生や博士、あるいはそこから海外へ出た友人、もちろん一般校の院生もたくさんいる。
勉強嫌いの私は、彼らにいつも「君たちが研究してることって、結局どういうことなの?」「その論文は何がすごいの?」「そのラボで受賞したやつ、中身は何なの?」と聞きまくっている。
だが、返ってくる答えに満足したことは一度もない。少なくとも、彼らの研究が実際にビジネスに応用されたり、世界を変えたりする場面にはお目にかかったことがない。
仲の良い院生の友人がいる。彼は研究室で一番のキレ者だ。といっても、私たちのコミュニティの中では特別ではない。ただ、彼の研究室は江浙滬(上海・江蘇・浙江)エリアのIT分野で最強と言われていて、その中で彼がトップなのは、周りの先輩や後輩があまりに仕事ができないからだ。ITの院生なのにプログラミングの基礎も分からず、Linuxも使いこなせず、環境構築すらできない連中ばかりなのだ。
ある晩、彼と「大学院に行く意味」について語り合った。彼に言わせれば、高校生レベルの知能のまま大学に入り、テストが終われば忘れるような大して重要でもない単位を揃え、推薦や受験で「大学院生」という肩書きにアップグレードするだけ。
中身は高校生のまま、3年間適当に授業を受け、他人の論文を読み漁り、既存の理論に「クソみたいな飾り付け」をして、さも世界を変えるかのような論文を書き上げ、学位を手に入れる。
私は彼に聞いた。「この前、君がラボで出した成果、上海のカンファレンスで発表してたし、国とも提携してたじゃない。あれはどうなの?」
彼は言った。「上海から来た審査員だって素人だよ。ハッタリが効けばいいんだ。国の機関だってただのサラリーマン。予算を使い切らないと次から削られるから出してるだけ。あのプロセスの中で、中身が空っぽだって知ってるのは俺だけだよ」
結局、大学とは何なのか?
地方から出てきた私にとって、都会の大学に行くことは「大都会に触れるチャンス」であり、大学はその街での「仮住まい」だった。日本に行く時の日本語学校のようなものだ。学校が本当に日本語を教えてくれるわけではなく、単に「留学ビザ」という猶予期間をくれているに過ぎない。
同じように、大学はその街での「在留カード」なのだ。そのカードの有効期限内に、何らかの手段で都会に生き残る術を見つけられなければ、結局は田舎に帰るしかない。
なぜ、貧しい家庭ほど「大学」を盲信するのか?
これまで何人もの大学生に「大学に行く意味って何ですか?」と聞かれた。彼らに「日本の在留カード」の例え話は通じない。彼ら自身、そんな世界を知らないからだ。でも会話を通じて分かるのは、彼らの親が大学に対して抱く信頼は異常なほど厚く、院生や博士という肩書きに対する執着はもはや信仰に近いということだ。
ある学生に「大学院なんて教授のパシリをして論文を出し、学位をでっち上げる場所だよ」と教えたら、彼は真剣な顔でこう聞き返してきた。
「もし、僕が本当に真面目に研究に取り組んだら、何か得られるものはありますか?」
私は答えた。「学部時代にすでに騙されてるのに、まだ大学院が救ってくれるなんて期待してるのか?」
こういう質問をする子の親は、たいてい大学を出ていないか、大学の仕組みをよく分かっていない。人は自分が経験したことのないものを美化しがちだ。そして、一度美化してしまうと、他人が突きつける真実を信じたくなくなるものなのだ。
